或る老婆が亡くなり、彼女のただ一人の身寄りである姪の盲目の少女を、牧師である「私」は、その慈悲心より引き取ることにした。しかし、「私」の妻であるアメリーは、汚らしい少女を家に連れ込むことに嫌悪を顕にする。ジェルトリュードと名付けられた盲目の少女は、「私」に教育を受け、次第に狂人のような叫びも止め、文字や色彩を覚えるようになる。「私」の息子であるジャックは、ジェルトリュードに恋心を抱くようになる。「私」もまた、同じような感情を少女に抱いてしまっていた為もあり、それを善しとしない。或る日、医師のマルタンによって、少女の目の手術が施され、成功する。しかしながら、目の見えるようになったジェルトリュードは、川に身を投げ死のうとしてしまう。理由は、目を見えるようになって世界は日の光も風も空も想像以上に美しいものであったが、「私」の家にてアメリーを見た時に、自分の罪を悟ったことと、嘗て盲目の状態で愛し想像していた「私」の顔が、ジャックにそっくりだった、という理由からであった……。
文学の代表的主題である「盲目の逆説」の作品ですね。目の見えない状態でしか見えないもの、聞こえないものがあって、その状態で夢想していた素晴らしい世界とは相反する汚濁に、目が見えるようになることによって分かってしまう、というアイロニーです。ただ、本作が『リア王』や『オイディプス王』や『春琴抄』と違うのは、それらの作品のように、見える目を自ら盲目にしたのではなく、本作は、もともと見えない目を見えるようにした、という逆パターンの「盲目の逆説」であるということで、新鮮さを感じました。盲目の状態で、ジェルトリュードは既にその汚濁が世界にあることに勘づいていて、「私」に何事も隠さずに教えて下さいと言っていますが、実際に手術後に見えた汚濁というものが「人間」そのものであったということは、悲しいけれど真実を物語っています。「人間」無き世界、空や風や光は、想像よりずっと美しいのに……という。また、本作品で私がもう一点気づいたことは、語り手である牧師の欺瞞です。彼は、慈悲心、宗教心の名の下に、自らの感情ないし行為を合理化させてはいないでしょうか。彼には五人も子供がいて、妻もいるのに、ジェルトリュードと抱き合い接吻までしてしまいます。それほどまでに現実の家庭とは掛け離れた無垢性をジェルトリュードが保持していたということかもしれませんが、如何せん、自らのエゴイズムのようなものを宗教によって隠蔽している風にも感じました。しかしながら、風景描写、情景描写が、かなり懐かしく美しい表現に富んでいたので、魅力的でした。翻訳は読み易く且つ品高い名訳だと思います。
傑作。終盤の台詞には感動しました。おすすめ度
★★★★★
牧師が少女を育てあげる中で生まれた葛藤と、少女が世界を初めて見た折の驚きを描いた作品です。
前半部分、慈悲の心で少女を引き取った牧師は、少女の保護者の役割を果たし、少女からも頼られるのですが、その慈悲は、少女の変身と共に、微妙に変化して行きます。
打ち消そう、隠そうとする牧師。
汚れを知らない、天真爛漫な少女。
少女は、多くのことを学んで行くのですが、目が見えない彼女は、世界を美しいものと教えられ、そう信じて成長して行くのです。
そう、現実には有りえない程に美しいものだと信じて。
牧師の葛藤を他所に、少女は、視力を取り戻し、そして、世界を眺めて、印象的な一言を呟きます。
ある意味で、社会の外にいた少女が我々の世界の自然、そして人を見た時、どう思ったのか?
一度読めば、二度と忘れない、そんな傑作です。
ノーベル症作家主義おすすめ度
★★★★★
ノーベル文学賞、これは数学界のフィールズ賞であり、映画界のアカデミー賞である。アンドレ・ジッドはノーベル文学賞に輝いた。師は一日に12回の自慰をする程の大爆笑的オナニストであったが、残した文学が、私に与えている機能は絶大である。ちなみに、私はソルジェニツインのほうが好きである。
納得の出来
おすすめ度 ★★★★★
とても面白いじゃないですか
。非常に洗練された魅力的なものになっていると思います。
感動やドキドキ感を手元に置いて、私同様に何時でも手に取って思い返して頂きたいと願います。